酒田まつり(山王祭)は 慶長14年(1609年)から一度も欠かすことなく続いています。 |
山王祭は上・下の山王社の例祭で、上の山王社は東禅寺分の鎮守、下の山王権現社は酒田町組の鎮守として信仰を集めて、明治の神仏分離令によって日枝神社と称されるようになりました。酒田の産土神(うぶすなかみ)として、毎年陰暦4月の中の申の日に祭礼が行われ、氏子から頭家(とうや)が選ばれました。頭家の主は、頭人(とうにん)として神事に勤仕し、神宿(とや)が開かれるようになりました。明治以降、太陽暦が採用され、祭礼は5月20日となりました。
写真:「本間家の亀鉾」 明和3年(1766)に本間光丘翁が京都の人形師に造らせたもので、甲羅は畳三畳分です。 米俵、蔵の鍵、鹿、大鯛などめでたい物を積んだ大きな亀を吉祥の吊るし飾りを下げた傘が覆っている。
|
|
|
|
| 頭家(とうや)を三回もすると家がつぶれる |
町奉行の発意で酒田三組一統の祭事となったのは正保3年(1646)、翌年には上下山王社の合祭が初めて行われ、酒田城代や町奉行から神馬を出し、儀仗用として槍・鉄砲・弓を貸付け東禅寺分の富豪に神馬宿(御葛篭馬宿(おつづらうまやど))を勤仕させました。
神事を補佐する責任者を頭人といい、頭人の家を頭家(または当家)と称しました。経済的な負担も大きかった頭家ですが「相勤候家門は永久に名誉」とされ、有力者であることが公認される絶好の機会でした。
頭人は裃に刀をさし、渡御行列の主人公として市中を行進して町奉行所に入り式台の儀を受けました。武士と商人の身分差が厳然としていた当時としては珍しい行事となっていました。
写真:「葛篭馬(つづらうま)」 五枚重ねの布団に神様がお乗りになるという葛篭馬。神様を最高の貴人としてもてなすとされました。
|
|
|
|
山王祭を目指して諸国の海船入湊 舟乗りも眺めた雲をつくような高い山車 |
山王祭の特色は渡御行列の美しさと神宿飾りの華やかさにあります。天明の頃から雲をつくような高さの山車が曳かれるようになり、その評判は江戸や大坂まで知られるようになりました。
名物となった山車は、京都祇園祭の山鉾巡行を真似たものでしたが、頭家が趣向を凝らし秘密裡につくられました。立山鉾は、電線が引かれるため明治39年(1906)を最後に姿を消しましたが、見事な山車の上の部分ははるか両羽橋からも見えたといわれています。
写真:「立て山車」 明治35年(1902)の本町組立て山車21m
資料提供:酒田市
|
|
|
|